協励会の基礎は、薬局経営者による「五人組協力会」を提唱した薬局経営指導者松香雄二が、昭和15年(1940年)3月、東京の日本青年館に広瀬元一郎らを召集したことが始まりです。後に「五人組協励会」と名を変えたこの集まりは、徳川3代将軍家光が行った政策、「五人組制度」にヒントを得たものでした。
「5」という数は、お互いの腹の内を心おきなく語り合うのにちょうど良い数でした。会員相互の連帯と義務を促し、隠すことなく薬局経営や日常を語り合うことによって、お互いの足りないところをカバーしあい、薬局経営を強固なものにしていく、というのが松香の考えでした。
この活動は、松香が指導し、岩下啻一郎がリーダーとなった東京製剤研究会のメンバーを中心に広がりを見せ、昭和15年9月に日本薬業協励会連盟が発足してから全国に広がりました。
昭和24年(1949年)に協励会が創立したとき、「五人組」はグループ会と名を変え、会の基本となりました。このグループ会は、別名「芋こじ会」とも呼ばれました。芋こじとは、里芋を入れた樽に水を満たし、棒の中間を縛ったX型のものを差し入れて左右に回すと、泥やゴミがとれて芋をきれいにすること。良いことも悪いことも話し合い、薬局経営の技術を磨き、ともに成長していく姿を芋こじになぞらえました。
このグループ会が協励会の基盤となって、さまざまな名案が生まれました。そのなかの「接客十二段」や「AQS」などは、今日のOTC医薬品販売にも応用できる要素が多いのです。さらに、このグループ会から支部、合同支部の活動へと会員が段階を踏んでいくことは、協励会にとって層の厚さを生み、それがまた会を強固なものにしていきました。
昭和45年(1970年)、社団法人として厚生省より許可を受け、協励会は社会的にも認知されるところとなりました。これは、協励会にとって新しい一歩を踏み出すきっかけでした。
社団法人であることは、国民に対して公益性を求められることです。それまで、薬局経営者どうしが経営技術を磨きあって成長してきた副産物を、社会に分け与えることも新たな使命となりました。50年以上も続いているドネーションはその例ですが、なにより現在は、保健衛生の見地に立って、国民の健康維持に寄与していくことが協励薬局の大きな目標であるとも言えます。
平成24年(2012年)5月、公益法人制度改革にともない、一般社団法人に移行しましたが、76周年を迎えた協励会は、協励会・日邦薬品・賛助会員の三位一体をより強固なものとしながら、グループ会を基盤とした会の基本的スタンスと公益性を大命題としなければならないのです。
協励十訓は、会員の行動の基準を示したものです。
協励薬局私の信念は、行動のよりどころを示したものです。
平成三分主義は、2005年1月に制定され、次の三つのことにバランスよく取り組めば、経営環境が厳しい時代でも勝ち抜いていけるという協励会員の経営指針です。